side・『烏丸』






6




おそらく薄いのであろう壁の向こうから雨の音が響いていた。
先の白昼夢を髣髴とさせる嫌な音。昔見た時代劇のワンシーンを何処か思い出す。
雨が降る日は人の心も雨模様なんだそうだ。 俺はそう大層な物でもないと思うのだがどうだろう?

肉体的疲労感から抜けた今。脳はあの天使の偶像を延々とリフレインさせている。
何処からが現実で何処からが夢なのかはっきりしない。
あの暴漢たちも本当に居たのだろうか?なんだかそこだけ記憶がぼやけていた。
心理的苦痛でシーツはもうザラザラ。毛布をクリーニングに出すか新しいソレがほしいほどだ。
今現在本当にダルい。俺は何時までこんな脱力感に襲われ続けなければならないのか?
少なくともあの白昼夢と回想を止めない限りこれはずっと続くと思われる。多分それは正しいだろうとも同時に推測。

「で、結局スタンガンの影響というわけではないんだね」

「ええ。元々赤い雨の影響を受けていたみたいで、ただの疲労です」

「まあ雨を直接浴びたわけでも無し。もともとソ学士に近いのかもしれんな。彼は」

ドアの向こうで誰かが話をしているのが微かに聞こえていた。
低く不気味な声と甲高い不快な声。内容は若干意味不明なもの。
ソ学士だの赤い雨だの。新手の専門用語か?と、少し思考にも混乱も入る感じだ。

あるのはただ頭に綿が詰まっているような感覚。体が綿と布で出来ていたらこれに近いかもしれない。
脳が停滞して思考が鈍い。後、神経も影響を受けたのか?動くのが少し億劫。
何処か埃っぽい空気が肺に入った。数年は換気をしていないような陰気な空気。
こんな中でよくもマア話し込めるものだと、それら二人に疑問符も。

うっすらと覚醒していく意識。脳を引っ掻き回されたような不快な感覚。
天井のシミが人の顔に見えて薄ら笑いをした俺は、唐突にジンジンとした頭痛を自覚して思わず少し目を閉じた。
天井がぐるぐると回る。言葉というのは感情を表現するのになんともがな向いていない。
どこかそれがもどかしい。痛みの程を正しく言い表す事が出来ないのはイライラする。
確実にいえるのは頭痛が段々痛くなっている事だけ。音楽で言うクレシェンド。安直で幼稚な比喩表現。

「っ!!」

膨らみ続けた風船のように痛みがパンパンに膨れ上がって、思わず此処で声が漏れた。
ギリリリリと思わず歯をかみ締め歯軋りをするも痛みに耐えるどころか頭蓋が圧迫されてソレが更に増す。
脳に痛覚など無いはずなのに何故頭痛などするのだろう?そんな疑問すら沸々と。

俺の漏らしたわずかな声に反応したのか?ついで、態々狙い済ましたかのように医者が入室。
相手が野郎なのが大分いただけないが、この痛みだと神経か細くなるから割とどうでもいい。
仮に付けたあだ名は優男。命名理由は何となく雰囲気だけ。

開かれたのは木製の腐りかけたドア。衛生面が心配だ。
この汚さが気になっていないということは、先の彼らの精神も何処か常道を逸したところにあるのかもしれない。
連想するのはサスペンス映画に出る殺人鬼の家。精神異常者の住居は汚いと、これは誰が始めに言い出した事だろう?
多分今の俺自身が情緒不安定で、こういうマイナス思考に逝ってしまうのだと無理やり思う。

「・・・・・・気がついたようだな」

甲高い声の優男が一人俺の顔を上から覗き込む。安っぽい目、でもその内に狂気は見えない。
ボサボサとした髪にメガネ。茶髪とアクセサリーの割りにしっかりとした服装。
狂人に誘拐されたとかそんなノリではなさそうで、此処では若干安堵した。
恐らくもう一方の、声が低い男は通路の奥へと行ったのだろう。死角に隠れてその姿は眼前にない。
全部アイツの独り言だったという可能性はあえて考えないようにしよう。気味が悪いし。

「あんたらは?」

「医者だよ。君は急患で運ばれてきたんだ。」

『あんたらはさっきの暴漢の仲間か?』
思わず聞こうとしたのはまずそれで、口を噤んだのは図星を指した後の反応が怖かったから。
この行動理由も半分以上は、現実逃避を望む甘えからだと思う。
先の安心も主観による判断から来るものだ。実際の所はっきりとしない。

今しがたの事なのに何処か現実感のない曖昧な記憶。
ピリリとした軽い痛みと先のスタンガンという危ない単語。ついで夢か現実かはっきりしない赤い雨とか。
それら以外を口にするとなると聞きたいことがありすぎて上手く言葉にし切れない。相も変わらず頭痛は酷い。

「薬打つから目を閉じて眠れ。君の体は疲れているだろうから」

そうしているうちに何一つ言葉を発せ無いまま。目の前で点滴から注射が打たれる。
即効性の薬なのか?副作用が心配なほど唐突に睡魔が襲来。
最後に思ったのは今が何時か?と、いうくだらない疑問。ついで視界が暗闇へ。



次に目が覚めた時にはもう時間の感覚が完全に消失していた。
さすがに二度寝ると水分不足からか?ダルイ疲労感もたびたび襲う

あの惨い頭痛はもう残ってない。
でも意識の片隅、特に感情に関する部分は、得体の知れない『感覚』を覚えていて何処か不気味だった。
普段C調を自称しているあたりから感情の根源に覚えが無い。なんだか自分が自分でなくなる感覚。
ソレは自己の劣化だとか、自身の知性の消失だとか、そういうカルトなホラーをどこか髣髴とさせる。

自分のものとは思えない汚い部分。元来嫌悪感が出る其れが、ガムみたいに脳髄へこびり付いて全然取れない。
ぺドフィリア。ピュグマリオン。幼稚な残酷さ。ネクロフィリア。SM。陰湿なペルソナ。醜美と嫉妬。
最悪なまでにアブノーマルな欲求なのに自分の価値観が侵食されて嫌悪感が薄れていく。自分の中に他人の欠片が入り込んだ感じ。

頭を振っても目を擦っても表面意識はぼやけたまま。
意識を覚醒させようと四苦八苦していると、コンコンとドアがノックされる。
さっき唐突に薬を打たれたこともあって若干身構えるも、抵抗しても意味無いので、すぐさまベッドの所定の位置に。
此処で問題のある奴だと思われたら何にせよ嫌なものだ。その上不安の内容が妄想だったら痛いことこの上ない。
『表面には感情を出さないように』と、強く心がけたのはそういう事情。

「どうぞ」

「・・・・・もう少し元気が無いと思ったが意外に健康的だね」

声の質から先の優男だろう。それが飄々とした顔つきで部屋に入ってきた。耳にアクセサリーを付けた個性の無い茶髪髪。
おおよそ医者に見えそうにないそのなりなのに知的な顔と無意味にぴったりな白衣が違和感を感じさせないのは驚きだ。
ある種の才能かもしれない。才能の浪費。そんな言葉もふと浮かぶ。

無言で彼はこちら側に近寄り、そのまま簡易なパイプ椅子にドカリと座った。
その一連の動作がどうにも偉そう。こちらを見下してかかっているようにも見える。ちゃらちゃらとした態度。
劣等感と自意識の過剰さからくる被害妄想だろうが、主観で見るとコレも正しくも思えるから人間って不思議。
必要以上の自分の卑屈さもうんざりしないでもない。俺も今の精神状態を恥じるぐらいの羞恥心は持っているからコレはなおさら。

「あんたはさっきの・・・・」

「そう、『さっきの』だよ。もう少し君は礼儀を知ったほうがいいかもな。
ほぼ初対面で『あんた』はないだろ?」

そういいながらなんの断りも無く目をペンライトで観察し、額に手を当てて来たその男。
ズイといきなり近づきベタベタと体を弄り回すその様は威圧感と無機質的な冷たさを強く受ける。
油っぽい手が何処か癪に触らないでもない。 感情的な人間なら、ここで恐縮か激怒をするほど。

なんだか自分がアレと同じ視点に居る気がしない。ずっと高い位置から見下される気分。
有機物としての自分が堕ちて、無機物の視界が再生される。人形か死体の其れ。
あるのは思考停止の気楽さだけ。だるいので鈴鹿に対するように反抗する気も起きない。プライドは一時休止中。

「なにか異常は?」

まるで機械のメンテナンスでもしているかのような口調。 頭が痛いと、あえておちゃらけて言うと瞳が獣みたいに細くなる。
ちっぽけな理性でも寄せ集めたのだろう。すぐに目は元に戻ったけど内心の怒りが少し漏れだしてる感じだ。
ずいぶんと短気な奴。まあこれ以上挑発するのは止めようか。これ以上は面倒くさい。対応も挑発も。
飼い犬に手をかまれた――――と、までは行かないが凄い顔をしていたんでソレを向けられたこっちも気分が悪い。

「あの、なんで俺こんなところに居るんですか?」

「知らないさ。ただ倒れて運ばれたとだけは聞いてるけどね」

案の定最初より素っ気無く答える。性格は外見どおりということが確定した。
自分が無神経なことをやっても相手にやられるのはやはり嫌なのか?
ジャイアニズムの浸透というのはどこか悲しい。我侭は一度通ると歯止めが利かない。
この大陸のこの国ではそういうのが最近抜きん出てる気もするからなお更だ。

「ちなみに、此処はイース第3病院だから。担当範囲的に君が高校で倒れたとかいうオチだと思うよ。
保護者に連絡するときにはそういっておけ」

「あの・・・・・そんな病院聞いたこと無いんですけど」

「まあ、臓器密売してるとかそういう病院じゃないよ。至極普通の病院さ」

普通の病院は臓器売買をわざわざ否定したりしないと思う。
何らかの理由でわざわざ不安がらせているのか?あるいは唯の嫌がらせ?
まあ普段ならネガティブに傾くソレも、今はアンマリ気にならないからいいけど。

ふんと力をついて一息、優男がため息を。
何かさらさらとカルテに書いていくが、アレはドイツ語だろうか?ソレを考えようとしたあたりでダルくもなってくる。
自分の飽き性も此処まで来ると病気のような気がしてきた。集中力が続かない。子供みたいに退行中。

「あ〜・・・・・本人確認。自分が誰だか言ってみ。忘れるとこだった」

そう喋りつつ取り出したのは青いメモ帳。
カルテの横にでも書けばいいのに、そういうわけにもいかないのか。小まめなことだ。
青いメモ帳に何故か青い色ペン。ソレがコイツの血色の無い顔にマッチしていてシュールな感じを少し受ける。
感情の起伏が小さいのはなんともがな。でもこんな細かい事で笑いを感じるというのもどうだろう?

どうせならたくさんの小さな笑いより起伏の大きい笑いがそろそろ来てほしい処。
ホントにコレも面白いんだか面白くないんだか、俳優ばかり凝ったB級ホラー映画みたいで微妙を通り越して絶妙だ。
自分でも何言ってんのか判んねぇ。脳みそがとろけてヨーグルトにでもなった感じ。

「え?・・・・・ああ、名前は烏丸平助。ウェイトストリート3号アパート。231で―――――」

「ファミリーメーム・五十嵐という風に名簿には書いてあるが?」

「ソレはなんか戸籍登録のごたごたで入れ違いになったみたいで、本名は烏丸です。
・・・・・・・こういう場合保険利かないんですかね?」

聞こえなかったのかあるいは無視したのか?医師は其の返答へは答えずに自分の作業へ没頭するだけ。
疑問の答えが後者だとしたら性格相当歪んでるのだろう。本当に外見どおりの奴だ。
ふと思った疑問は『何故戸籍名称を知っているのか?』そういうもの。その疑問も適当に思考停止で流させる。

鮮やかにペンを胸のポケットに差し込んだその時にはもう数秒経ち。先の疑問など完全に無視された事が俺の脳内で確定した。
俺の米神も少々ピクリ。おまけに血管も少々ピクリ。それが略同時だったものだから客観的に見て若干可笑しかったかもしれない。
なんだか感情の制御がやり切れてない。教室ではあんなにスムーズにできたのに。惨い違和感だ。

「ん。じゃあ保護者に電話を入れとくよ。まあ一日入院することになるけどね」

「はあ・・・・・どうも」

「それじゃ。何か有ったらナースコールで」

『早く終われ』と思ったらアッと言う間に話が終わる。まあ嬉しくもあるが、反面それが何処か不気味。
忙しなく過ぎ去るという表現がぴったり来る。何処か演出過剰な感じも視野に入れて正しくピッタリな感じ。

今は出来うる限り、物を考えないのがいいのかもしれない。
このままじゃ如何せんどうしても。あれらが『医者じゃないような』そんなネガティブな想像が湧いてくる。
ほら、現にもうあの医者の態度から『コントみたい』と感じる辺り、人間心理は不思議なものだ。

ドアがばたんと閉められた時、腐った板がバリッと大きな音をたてた。
古すぎて色々と不安だ。唯一の救いは毛布とパイプベットが多少清潔に見えることだけ。
だが其の救いさえも、建物と家具のアンバランスな新品加減で別の意味での不安を誘う。

(・・・・・大丈夫なんだろうか?この状況)

こういった不安を感じるのは毎度毎度何時ものこと。ただ今回は慣れない状況でソレが少し度を過ぎていた。
拉致という現実的妄想がソレを一気に引き出してしまう。普段日常という薬で中和しているその感情。
他人との調和、我慢、服従、相互理解。そうやって押さえつけているもの。マイノリティへの強迫観念。

テロの被害者というのもこれらマイノリティになるのだろうか?
なによりも『普通』から外れることは怖い。件の父親の言い分を思い出して、黒い壁をつくづく連想する。
いくら冗談混じりに小さな非日常を望んでいたとはいえ、この状況は幾らなんでもナンセンスだろう。
俺はもしかしたらダウン系の麻薬でも静動脈にぶち込まれてバッドトリップしているのかもしれない。

考えるほどネガティブになるから怖い妄想。事実心当たりもあるから余計に最悪。
特に理由を挙げてみると不良組からの嫌がらせとか嫌がらせとか嫌がらせとか。
畜生あの人種差別主義者め、身内好きの近親相姦野郎の癖にグダグダと。

「・・・・・なに考えてんだろ?俺」

その言葉は誰に言ったのか?ソレすら判断が出来なくなって、思考の終始も意味皆無。
12番と書かれた診察バッチを弄りつつ、俺はまたもやあの時を思い出す。
朝が早く来て欲しい。病院の不潔さを感じながら思ったのはただそれだけで。



――――俺は又黒い壁の回想をする。







side・『洋子』





7




さっきまで謎だった空間―――――地下の水道施設から地上へ出る。

深遠に近い暗闇。雨の音。紅い天使。BGMとも取れる住人達の悲鳴。
そして一拍置き、感情を落ち着けてからまず感じたのは予想以上ともいえる地上の湿気が少なさだ。
雨が降っているはずなのにそれが『感じられない』という異常。コレは多分紅い雨の作用だろう。
こういう事は前にも経験があるのでわかってしまう。気がつきたくも無い事態のはずなのに。否が応にも。

この町で感じる風など諸事情で人工物しかないはずなのにソレがなぜか生き物のようにも思えるものだから余計不気味。
こういう違和感を覚えた時にはやはりというべきか大抵碌なことにはなっていない。
空を見上げると流れ落ちる赤い雨の流れが皮肉にもまるで天使のような形をかたどっていた。
赤い天使。始めて見たはずなのに始めてじゃ無い気がする。
さしずめ例えるならそれはザミエルか?台風の天使。そして悪魔。

ススキ畑と近代都市がまるで共生しているような、このポッカリとした空き地からは飲みこまれそうなほど黒い海が見えた。
その岬にある病院。半分木造でできたそれがどこか気持ち悪い。幽霊病院とか、笑い話にもならない妄想を考えてしまったりなんなりだ。
アレが確か今回の潜入スペースだったか?事前の情報だと内部はまるで迷路との事なのでトラップに気をつけたほうがいいかもしれない。
戦力差考えると鬱になりそう。太平洋戦争の比じゃないほど。もっと絶望的。

なんでこんな惨い状況でたった一人放り出されなきゃならんのか?多分帰れたら英雄だ。自分で自分を褒めてやりたい。
マゾヒズムと鬱屈としたマイノリティーに酔いしれた。自覚症状のあるナルシズム。
無意識にガラスでできたナイフを強く握り締めていた。何時の間にやら、私の手からはブラッドレッドの鮮血が勢い良く噴いている。
破傷風菌が心配だ。いろんな意味で痛い。まあレプリカだからいくら壊れても別に良いけど。

「・・・・・・・・なにやってんだろう私」

その意味も無い自傷行為に目をつぶる。
でもこれらの痛みも不幸中の幸いか?気がつけば気配の薄い視線が私の周囲にぽつぽつと。
どうして今まで気がつかなかったんだろう?死のにおい。動物のにおい。それらが今真後ろに迫っている感覚。
意外に敵の増援が早かったというのもあるが、この程度のイレギュラーなど往々にしてよくあるものだ。
いつもなら気がつけるハズのそれに今回反応できなかったのは、多分慢心か呆けが原因だろうと何となく思う。

精神の覚醒よりも早く起こったのは肉体の反応。
条件反射にも似た何かが私の中に発生し、筋肉を無意識下の内に操作した。
手にあったガラスのナイフが鮮血とともに飛び。見知らぬ視線の主に突き刺さる。

ついであったのは悲鳴。グッと言う何かが軽くうなるような音。音から音源は想像もしたくない。判っているから。理解したくないから。
奇襲を恐れるゆえの行動とはいえ、敵を物のように扱うソレに惨いエゴイズムを感じないでもない。
控えめに言っても奴さんに対する今の自分の意識は人形に対するそれに近かった。軽い自己嫌悪にも陥る。ちょい演出過剰気味。

自分の行動に精神が気がついたのは事の後。まあ、これらは何時もと変わらない。
呆けが相手に移りわたる。予想外の動きに敵も思考が停止したんだろう。
無意識に流していた冷汗をうっとうしくも思いつつ拭いて臨戦体制をとりあえず取った。
心なしか体がダルい。レプリカの弊害がさらに惨くなっている。

敵の顔の筋肉に力がこもるのを垣間見ながら空き地に隣接した安アパートの鉄筋に張り付いた。
ソレを足場にし高速機動の種になる初めの推進力をたたき出す。脳のアルゴリズムで方向転換。そして加速。
イメージとしては飛蝗の動き?真横への跳躍を模したその動作は、ただただ獲物を狩ることだけを考えているようにも見える。
自分の思考なのに疑問形なのはこれらが単なる猿真似だからだろうと意識の片隅で思考。

「っ!!!!撃てぇ!!!」

敵の指揮官から射撃許可の命令が出たのは更にその少し後。
しかし命令のだいぶ前には恐慌状態の新兵が恐怖を撒き散らしながらフルオートを始めていた。
ビルの壁が削れる。自分の出したその音で新兵が更に脅えている。
恐怖は感染し。予想以上の私の動きにあちらの統一はすぐに崩壊。
やはり先の錬度から察するに即興の軍隊だったか。敵も惨いことをする。兵も可哀想に。


―――――かく乱のため煙幕を張る。


攻撃を意識的にやろうとすると腕が止まった。精神の切り替えが済んでいなかったのだろう。
いいかげんこういう職種を選んだのに非情になれきれないというのはどういうことだろうか?
自分自身の矛盾に嫌気が刺す。ソレを半ば忘れるように更に跳躍。

命令は『殺せ』
けして先のように『潰せ』ではない。殺す相手を認識し被害を最小限に抑えた上で人として『殺す』のだ。
こんなにも嫌悪感の来る命令ってないと思う。敵側の表情を思い出すと惨く欝。いっそ忘れてしまいたい。
相手を人間として認識せずに殺せたらどんなに良いものだろう。自己暗示のありがたみが良くわかる。
『より効率的な戦闘』をする上で心理戦は欠かせない。恐怖で凝り固まった人間ほど殺しやすいものは無い。
こうして原始的な殺し方で恐怖を誘っているのも元々はそういう理由だし。それがなんとももどかしい。

此れまでの躊躇は短く済ませる。敵影を大まかに確認して、此処で漸く『自発的に』発砲を開始する。
この煙幕の中でもレプリカの過敏な目は影ぐらいなら見せてくれる。
痺れる腕、命を奪った感覚。でも先のガラスの破片よりはいい。肉を裂く感触があまりしないから。
ついで、近づいた敵へ残酷性を出す鈍器。こちらは感触がリアルで嫌。
弾の数が残りわずか。早くまとめ役を見つけて狩らないと割と危険な感じ。
相手が素人だというのが唯一の救いだ。リーダーを潰せばまだ何とかなるから。

敵の動きも悪条件とはいえ稚拙にすぎた。こちらの動きも所々惨いがそれでもあちらはその上を行く。
私から三番目に近い位置に居た新兵が爆弾をこちらに投げようとし、『敵の味方』がそれに巻き込まれる。
爆風で二番目に近いやつと一番目がこの世から昇天。近くに居た私への影響は精々小石が皮膚を破った程度。

ついでその爆風を私の攻撃だと誤認したのか?六番目に近い位置に居た新兵がそこいら一辺に銃を連射した。
撒きこまれたのは四番目。最も遠くに居た新兵はヒイヒイ言いながらその場から逃避する。
稚拙さの原因は、こちらの高速機動と主に混乱ゆえだろう。もう彼らの誰一人として私の位置を正確につかめていない。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!」

奇声を上げるその醜態。よく見るまでもなくその表情は必死だ。
戦って死ぬのも怖いが、逃げればもっと恐ろしいことが待っている。そんな顔。
其れはある種、蜂団子にも似ていた。たった一人に必死になって『集る』。先ほどまでの様が重なって見える。
そんなに命を捨てたいのか?まあ、ソレを有用に使っている辺り共感できなくも無い。

敵は貧民でも雇っていたのだろう。技能も一人一人の体力も少ない様子。
あんまり良いもの食ってないんだろう。金で人は死ぬとよく言ったもの。実にいいえて妙だ。
この戦場で死ぬか。それとも飢えて死ぬか。彼らにはソレしか道が無かったのだろうか?
そのまま無謀にも突っ込んでくる兵ら。後先を考えない飢えた目。こういった輩は心底厄介だ。本当に。

こちらもこちらで奴さん方の死に際を見ないように必死。血の赤は嫌い。戦場であっても吐いてしまいそう。
動いているたんぱく質を動かないたんぱく質に変える作業。無機質で機械的な動き。
見ていない分には生理的な嫌悪感が少ないからいい。センチメンタルな感情は戦場では中々無い。

機動を更に激化させる。視界がノイズでトぶイメージ。

戦場の臭い。死の臭い。自分自身の真横を銃弾が掻っ切った。
鉄板すら砕くグレネードが真上を吹き飛ばす。お返しに史上最強の化学薬品がトーチカなんぞいらんとばかりに爆発。
誘導薬はやはり良い。戦場への最良のスパイスだ。銃はとうとう弾切れ、コイツはもう使えないだろう。

黒塗りの手榴弾が集団で私に追い討ちをかける。キュリキュリとソレらがスリップ。又も頬を掠めるのは爆発の衝撃。
あまりの高速機動でGが馬鹿みたいに感じられた。意識がはがれ落ちそう。気を失ったらいろんな意味で死ぬ。マジ死ぬ。
こんな仕事をしている以上、まっとうな死に方は出来ないだろう。それでも出来ればあの新兵みたいに『物のような』壊され方はしたくない。
仮初の体だろうと、心底吐き気のするエゴイズムだろうと、此れは変わりようのない私の本音。

精神の内面は兎も角、動き回ったら脳内物質が洪水みたいに吹きだしたようだ。興奮で頭部の生理状態に異常をきたしているのが判る。
経験上おそらく瞳孔が拡大しているのだろう。煙幕の闇の中なのに『見えすぎる』ほど周囲が良くわかる。判ってしまう。
もしかすると今の自分はまるで死人のような目をしているかもしれない。
黒目の比率が異様に上がった生気のない眼。悪魔の目。ソレを連想し案の定というべきか自己嫌悪を。



新兵に混じって一人だけ、戦闘行為に興奮しているのか?こっちと同じような目をしている奴が居た。
ベテランらしきそれは、周囲の稚拙さとあいまって暗がりの電灯のようにどこか浮いている。
こういう戦闘だとなぜだかこういう壊れた人間が生き残ることが多いから世界とはつくづく不思議なもの。
無理やり底上げしたテンションがソイツを視界に釘付けにする。

ある種の殺人鬼の持つ記念品願望。こいつもそれに近い性質を持っているのかもしれない。
銃器にはバラバラと音を立てて戦利品らしきアクセサリーがぶら下がっていて判りやすい。
自分が戦況の範囲内で『こういうの』を優先的に殺す事にしているのはおおむねそれらの偏見から。
ある種私も独善的。まあ良い。さっさと殺して死に顔を観てみたい。

まともな敵の攻撃は結局この男のものだけだった。
士気の低下を見かねて切り込んできたのだろう。ようやくまとめ役を見つけた感じ。合理性は最高の免罪符だ。
先にも言った高速機動。横運動と縦運動の交錯。それに高さも含めた三次元戦闘を始めただけで他の有象無象は木偶と化している。
生きているだけの障害物。あちらさんの弾はもはや一切当たらない。煙幕と多方向からの攻撃で略パニック状態。

距離を置くため、空き地に隣接したビルの窓を破り中に入った。
持ち前の運動性能で壁伝いに出っ張りを上り詰め、そのままガラスをブチ破る。
二階の窓を入り口に数秒で内部に入れたが、建物の構造なんかを見る限り一階からの強行突入は多少時間がかかるだろう。
敵は其の飢えた眼に見合うかたちで挑発とチキンレースに乗る。私の後を奴は追い、同じルートで追跡を。
今回はその律儀な性格を利用させてもらう。割ったガラスに手を掛けると背後の様子が垣間見えた。
『跳ねる角度を想定し攻撃法をイメージしなくては』この間の思考は普段より鈍い。頭が馬鹿になって考えるのがノロマだ。

人の生活臭と言うものが欠如した薄暗い屋内。そんな空間に私、ついで例の男が進入する。
入り口から見て反対側の壁を蹴り、反動をスピードに変えた。
それの相対によって私の視界も当然流れるように動き出す。突進と同時に第一撃。

「――――っぐ!!!」

いきなりこんな突飛な行動に出るとも思わなかったんだろう。
敵は押し殺したかのような唸り声を上げて私の突進を避ける。ついでカウンターで入れられるショットガンの攻撃。
避けようとするものの攻撃範囲が広すぎて完全に避けるには至らない。
左腕がそれによって軽く痛んだ。追い討ちをかけるように先の乱戦の生き残りがビルの一階へとなだれ込む。

ようやく自分たちがお仲間同士で同士討ちをしていると気がついたか?それにしても行動が遅い。
階段を含めこの部屋に来るまでは数十メートル。階下の音が良く響いて私の心に焦りを生み出した。
建物のごちゃごちゃした構造も考慮して、後数十秒で片をつけなければ敵がこの部屋に雪崩れ込むだろう。
此処が二階ということもあって、階下からの攻撃も否定できないのが心理的に嫌だ。

ショットガンを構える眼前の敵に再度壁を使った加速をする。
体感速度は時速40キロ強。そのスピードで右腕に構えた簡易ナイフの有効範囲まで入り込む。
この距離でも投げれば敵に届くが狙いがブレるので即死は望めない。
とりあえず確実にしとめるためにも敵の懐に飛び込んでみた。

必然的と言うかのごとく近づけば近づくほど、あちらも攻撃も当たりやすい。
向こうは威力が上のショットガン。速度も有効範囲も又しかり。
肝心の技量は似たようなものなので答えは見えている。そのままだとこちらに分の悪い賭けだ。
それを悟ったのか敵の頬もニヤリと自然につりあがった。気持ち悪い顔。妄想がにじみ出てる顔。実に判りやすい。
まあ双方の武器の位置。加えて奴さんの体勢という条件が完全に重なれば恐らくあの敵のイメージどおりになるだろう。
其処に奇跡でも無い限り此れは確実。そう『普通』ならば、そうなるはず。

「・・・・・・・『宮間』。わかっているわね」

なんとなく呟いたのは例の無神経な同僚の名前。惨い濁声で意味のある言葉にすらなってない。
そういえばアレとかコレとか。彼女の名前を任務外で言った記憶って本当に少ないな。
関係ないことに思考が飛んだ辺り気の緩みが出たのだろう。もう戦闘が終わった気でいる。
『これが終わったら今度買い物にでも誘おう』次に思った思考はまずそれだ。
脳内では実に嫌そうな彼女の顔がリフレイン。これらも走馬灯とでも言うのだろうか?
嫌だなぁ。死ぬわけでもなし。縁起でもない。『そう私はまだ死ぬつもりは毛頭ない』

眼前でショットガンが炸裂するのと同時に投げ込んだ火線上の試験管。
今日だけで何度も使われた『誘導薬』と言われるそれが、どういう理屈かは知らないがとにかく一瞬で沸騰し気化した。
無知な私に言えるのは、これが、この薬剤が。あの埃まみれの個室に居る同僚を介し、現象を呼ぶ薬剤だということだけで。


――――――強風のような斥力場が発生。


無知でも科学は平等に作用するものだ。
最良と言うほどでもないが、まあ銃器相手ではそこそこの、そんなバックアップが実現される。
対流の召還。本来核兵器すら防ぐはずのソレだが、この不良品では効果範囲に穴が多数。
もっとも鉛ダマを数十発は止める役割を果たしたのだろう。直撃は免れた。

だが先にも言ったように『不良品』なので全部を止めるまでには至らない。
これ自体、先の兵士から奪った薬品にレプリカの、今の私の血液に混ぜただけの代物だ。
何発かが斥力の包囲網を抜け、皮膚を衝撃で弾け飛ばした。
痛みはあるがその分『肉が欠け』五体が軽くなったと喜ぶべきだろうか?
それでも本体と右腕は無事だ。照準を敵の頭に合わせ残った腕でナイフを突き出す。

こういうとき、人間の体というのは実に不可思議。
数十兆の細胞を編成して、生み出されるのはこうも大変なのに、終わらせるのはナイフ一本で事足りる。
昆虫やら羽蟲とは比べ物にならない。積み上げてきたものを行き成り壊す開放感。戦場で感じる数少ないセンチメンタル。
ドミノ、ブロックタワー、まあ何でもいい。そういうものだ。長い時間を内包したものが一瞬で崩れ落ちる情景、あるいは感覚。
実に非平等。こんな恐ろしい世界で生きていくのに人間が何かに縋ろうとするのもわからないでもない。まあ共感は出来ないけど。

後はいつもどおり、急所を貫く。

暗示をしてないこともあって、出来るだけ見ない様にぶち殺し。後に残るのは物言わぬ塊に成り果てた敵の亡骸。
なんとなくそれから目をそらすように窓の外を見ると高層ビルのコンクリートジャングルが無感動に見えた。
そのひときわ高いビルのちょうど天辺。恐らくビルの気流がむごいのであろう、その人工の死地に赤い雨が出鱈目に降り注ぐ。

これからあの都心部を通り抜けて目的地に行くのかと思うと本当に、実に憂鬱だ。
私も何で兵隊なんでやっているんだろう?無駄にネガティブな性格なのに。
いい加減メンヘラが過ぎた。自己嫌悪と自己憐憫に浸りすぎ。
脳味噌をもう少し落ち着けたほうが良いとも思う。文法が少ししっちゃかめっちゃか。

そこそこ強かった辺り、やっぱコイツが隊の中心だったんだろう。RPGのボスキャラみたい。
大体一隊に一人は居る裏方のまとめ役。経験上こういうのを潰せば少しは混乱を招けるはず。
ならばこれ以上戦う理由は無い。逃げて目的地へと向かうことを脳内会議で決定完了。

足に力を込め、あの陰気な病院を眼中に入れる。それだけでも気分がめいりそう。出張るのは夜じゃなくて昼間が良かった。
自己暗示をして無いと如何せん此れはとめられそうにも無い。作戦中だというのにネガティブになるのは何故だろう?
まったくもって嫌になる。此れだけは止めようも無い。何時もいつも。








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