side・『洋子』





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視界が雨で霞んで見えた。紅い雨が目の前全てを真っ赤に染めて、何処か血液を思い出す。
手に浸るのは、ソレよりもなお紅い本物の血。腰より下は其れにより、血染めと言う他無い具合。
ソレを返り血だと知らせるのは全身を包む虚脱感。其処に自身の血が一滴も無いのは小さな僥倖。

背景にはボロボロで年代を感じさせる建造物。形状はひっくり返った中華鍋のようだ。
内容物のほとんどを地下に収めている所為か?ソレは何処か地味な印象で、古い祭壇を思わせる。
足を付く周囲の空間はアスファルトのひび割れるスラム街。想像させるのはその最盛期。
陰湿な空気とは裏腹に、ある程度の水準を満たしているその町並みがどこか痛々しい。

「・・・・・・やけにこの雨べたべたするわね」

あたり一面赤一色に染まった視界。嫌な天気と嫌な風景だ。そのうち片方は自分の所為なのに厚顔無恥な私は思う。
遺跡の眼前で行われるのはスプラッターな殺戮。どこか生贄の儀式を思わせる光景。赤い雨は新たな血を飲んでいく。
その陰湿な感じが実に気持ち悪い。連想するのはマヤの儀式。血と暴力とアドレナリン。本能から来る歓喜と興奮。
人殺しをしているのにそう思うあたり、私は下種なんだろうか?自分が酷く薄汚れた存在に思えてたまらない。

最後の生贄は、まるで死を恐れる幼子のように私の眼前でガタガタと歯を鳴らしていた。
何がそんなに怖いんだろう?戦場に立つあたり予め殺される覚悟はしてきてるだろうに。
自分の首がもはや折れていたことに此処でようやく気が付いて、条件反射で若干ドン引く。
なるほどこんな化け物を見たら誰だって怖がるだろう。我ながらグロテスクな状況だ。

態々フォローしてやる義理も無いが、まあこの世との別れだ。せめて安心ぐらいは与えてやろう。
笑顔を向けて首を正しい位置に戻す。奴さんの引きつった顔に触れ銃口を額へと押し付けた。
イメージとしては聖母の笑み。まあそんな神聖なものでもなく、どちらかと言えばねっとりとした笑みだけど。

「バイバーイ」

途中「っひ!!!」という気の抜けた声が奴さんから漏れ、命が終わる。
ドシュリという嫌な音が私の腕から響き渡った。命が終わる振動。
この仮初の体に入っているとはいえ、実にリアルな感触だ。

意識がアドレナリンのトリップ状態から帰還してきて、次第に正気へとなっていく。
嫌悪感の芽生え。眼前の光景のグロさよりも手のベタベタ感のほうがイライラするのもご愛嬌。
やはりというべきか人殺しは何時も楽しくない。つまらなくも無いからそこいら少し微妙だけど。
例えるなら観光地で言う伊豆みたいなもの。ほんと可もなく不可もなく。

眼を閉じて、後ろ向いて、一回大量のお好み焼きを口から全部出した後に護衛対象の安否を確認。
車の陰で蹲っていた『それ』は本当にただのサラリーマンのおっさんにしか見えない。くたびれた制服にバーコード禿げ。
まあ安っぽい漫画でもあるまいし、個性の強すぎる人間のほうが今日日珍しいのだろう。そんな偏見もポツポツと。

「・・・・・ご無事ですか?」

「っ!!!」

無論後者は護衛対象のお言葉。何故美化語で接したかは私でも良くわからない。
ホンの少しだけ私の台詞が悲鳴と交差して惨い欝になった。なんで私も兵隊なんてやっているんだろう?
内面のソレを止めるかのように絶妙なタイミングで謝罪が来る。「あ・・・・・・ああ、大丈夫だ。君も平気かな?」
『平気かな』の部分が『兵器かな』に聞こえた私は病んでるのだろう。ネガティブが過ぎた。

この人も、もう少し他人に気を使ったほうが良いと思う。これは私の勝手な意見。
謝罪も何時もどおり言葉だけのもの。この人もあの迷信を信じているのだろうか?
私達が人外の化け物だなんて、いったい誰が流したデマなんだか。時代錯誤も甚だしいじゃないか。

「た・・・・隊長!!!!」

数秒遅れて出てきたのは多分その部下達。そのうち参謀っぽい奴が叫び声を上げる。
心配するのはいいけれど敵が来ている間、お前らは何をやっていたんだ?
すぐさま私から隊長を覆い隠す。その動作からしても人格薄っぺらい。
もしかして私が隊長殺すとでも思ったのかしら?ありえそうで嫌だな。

そんなチキンにもお優しい言葉をかける隊長に私の中での株が若干上がった。さっきまでの暴落が漸く止まる。
もっとも『愚鈍な協力者』という時点で私の株は地の底にまで埋まっているからプラスといっても微々たる物だ。
どのぐらい愚鈍かといえば二次大戦時のイタリアぐらい惨いから笑えない。笑いたくも無い

「ご無事ですか?」

「ああ、彼女のおかげでね」

周囲を少し見渡すと過去に見覚えのある風景が数数多。ここも荒んだな。かつてあった楽園のような光景が嘘のよう。
ここいらのサ店のケーキがおいしかったから物忘れの激しい私の脳でも例外的によく覚えている。
アメリカンながら大味じゃなかったところが得点大きい。ホント、あの味は惜しいことをしたものだ。
人の生き死によりも、こういうことにやるせなさを感じるあたり我ながら滑稽にも思える。

「このルートは駄目ですね。ルート変更もやむなしかと」

「まあ、妥当な選択だろうね。敵も無能と聞いていたが中々どうして指揮は優秀だな」

事の背景にはリアルで真面目な事態もあるんだろうがそういったことには頭が回らない。
何処までも利己的でズレている。こういう思考もなんとも幼稚でかっこ悪い。
戦場なのにこんな思考が出来るあたり案外『余裕』なのかもしれない。

そんな私の『遠い目』に若干引きながら先のチキンな兵隊が少しづつ此方へ近寄ってくる。
もう隊長さんの様子をみるのはいいのだろうか?まあ無事で何より。ただ死ぬよりは有益だ。
奴さんが私の折れた首を凝視しているのは出来うる限り考えないようにしよう。

「・・・・荒木洋子中尉」

「結局どうするんです?これから?」

ビクついてるのがカッコ悪いですよ。『兵隊ならシャキっとしてほしい』そんな思考が意図せずに浮かぶ。
別組織とはいえ、上官に過激なことを言う勇気は何時もの私に無い。軽く考えただけでも震えがきた。
権力への過剰な畏怖もいい加減直したい処だ。自分で勝手に考えて怯えるというのもどうなんだろう?
頭が回らないのは多分疲れが原因。こんなだから出世できないのだろう。意識がボーっとして馬鹿な事ばかり考える。

「11番区に壁の薄いポイントを見つけたそうだ。そこへ1710時までに到着するように」

「・・・・・はい、了解」

反応が遅れたことへの叱咤は無い。奴さんもこの格好にビビッているのか?そのことに少しテンションが上がる。
おもわず笑いがこみ上げた。我ながらマゾヒズムに塗れた笑いだ。本当にやるのか?と、軽いアイコンタクト。
11番区への移動。それも1710時までに。ソレは元来不可能な要求だ。物理的には可能だが時間的に不可能といってもいい。
考えられうる全ての可能性を考えてもソレを実現する手段は一つしかない。『この仮初の体を捨てる』ただそれだけで。


『奴さんの頷く動作と同時に自分の首をかきむしる。』


喉から出る色はどす黒いブラッドレッド。紅い雨の幻覚による『赤』とは違う本物の濃さだ。
文字通り赤というほか無い色。血と魂の色。激しい脈動の色。そのおぞましさと素晴らしさに久しぶりに魅せられる。
神秘的な色。脳裏に浮かぶのはそんな感想。ボキャブラリーの貧弱さが忌々しい。赤、赤、赤、実に素晴らしい。
ためらい傷で痛感がジンジンと感じられ、ホンの少し快楽も。新たな世界への扉。喜びよろこびヨロコビyorokobi。

「・・・・・・っ!!」

おそらく『体を捨てる』ということが『頭では』わかっていたのだろう。多分伴ってなかったのは現実への認識だ。
其の足りない部分を実際眼前にして奴さんはショックを受けた顔をしていた。リアルの重み。何となく判る感覚。
血が出る。肉が飛ぶ。つめがはがれる。自殺を執行する。そんな濃い情景。『生々しさ』と言い換えてもいい。

ふとおもったのは一つの思考。『銃弾で頭を打ち抜けばよかったんじゃないか?』。だがそれすら後の祭り。
頭でそうは思っても、痛みの所為で体は死への進行を止められない。早く楽になってしまいたい。
こういうとき頑丈な体に入っていると惨く後悔する。死ににくいのは良いことばかりではないらしい。

首が折れているのに動脈を傷つけないと死なないとは、なんともがな不思議なことだ。
悪趣味な悪戯のつもりで高笑いをしてみた。今度こそ徹底的に引いた顔をする兵士ら数名。
見れば先の二人に追加して何人かの味方が私を取り囲んでいる。『ああ、私なんだか痛すぎたかも』
それに沸いた感情は羞恥よりも後悔。でも笑うのは途中でやめない。半分意地だ。

「アハ痛ハハハハハイタイイタイハハハハハハ痛い痛いッヒヒヒヒヒ」

笑うのに呼応して出血が飛び散る。ソレがなんだか面白かった。
面白い面白い面白い。本当に面白い。喉がガラガラになる。音に濁点が混じる。
アドレナリンの過剰分泌か?或いはストレスの所為か?悪ふざけが止まらない。

「ハハhうぉえぇぇ・・・ハハハハハッハ」

これも何時もの行動だ。汚い音。自分が汚物になった気分がする。でも不思議と嫌じゃない。
死人以外にこんな様を見せたのは久しぶりだ。割とこのシュチュエーションもレアだと思う。
なんだか私って悪趣味なのかもしれない。暗転するのは出血から数分後。相変わらずタフな体だ。
『やはり銃での自殺が楽でよかったかも』痛みから再度深い後悔。変なテンションになる。
そんな私の午後のひと時。それもヤッパリ駄目人間風味。いい加減この性格にも変化が欲しい。






side・『烏丸』





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ふと気が付くと何時もやっている悪癖。俺には物心付いた時から過去を回想する習慣があった。
コレだけ言うとヤク中のように聞こえるから嫌なのだが、まあ事実なので仕方が無い。
『白痴のように』とはよく言ったもの。余り適切な表現ではないと思う反面其れはそうとも取れる。

回想の当時はおそらく十年近く前だろう。有るのは十年前のブームメントの名残、そして十年前の自分の容姿。
何の変哲もない、つまらない風景。まあ其の当時、俺はそんな中でも嬉しかったのだろう。笑みが自然と顔に浮かぶ。
街路樹の隙間を行き来しつつ浮かべるのはニヤニヤとした薄気味悪い表情。機から見てても気味悪い餓鬼だ。

引き詰められたコンクリートのタイル。それで出来た大通りをはしゃいで歩く。
時期としては秋だったのか?紅葉と黄葉のアクセントが美しい。
ただ俺にとってはさっき食べた銀杏のほうが魅力的だったようだ。
其のときにのみ限って言えば暖色の葉に対して浮く感情は酷く薄い。

遠くではカラスが車の捨てるゴミをむさぼって食べている。車が近くを通り過ぎるたびソレはぎゃあぎゃあといって飛び立っていた。
効率のいい餌のとり方から見て頭がよろしいのか?それとも車道に態々出ているあたり単に馬鹿なのか?多分前者だろう。
カオスな情景のこの町にマッチして何処か曖昧だ。こんな情景が綺麗と思えたあたり、子供の頃の視点がいかに小さいかが自覚できる。

「あまり早く走るとコケるぞ」

「はいはい、わかってるよ」

後ろから聞こえるのは父の叱咤と車の廃棄音。そんなに早く走っていたのだろうか?はしゃいでいたであろう俺に少し赤面する。
物事に多分な期待を寄せるのもおそらく家系だ。父も俺と同じ。それゆえ人生に失望が付きまとってしまう。まるで三文小説のように。
子供ながらに自己憐憫に浸りすぎな劣性遺伝子。三枚目風味のヘタレキャラ。俺は多分ひねくれていたのだろう。この頃から。

現に俺は現在も友人が少ない。そこいらからもソレは若干見て取れたりなんなりだ。
回想の中。過去の俺が一定のリズムで今度はゆっくりと歩む。イメージとしては機会の挙動。
1、2,3、2、2、3、4。何処か音楽にシンクロするように。そして音楽に使われるように。
餓鬼のころの俺は脳味噌がお花畑だったんだろうか?そう少し疑わないでもない。

「お父さん、今度行く職場ってどんなところなの?」

「・・・・ああ、いいところだよ」

『間』の意味を深く考えない子供というのはそれ故に純粋で『幸せ』という感情にも毒がないモノだ。
静寂の間にあったのは砂交じりの風の音。ソレにより軋む枝の音。あと自分の呼吸音。ただそれだけ。
両手一杯に持ったマザーグースの詩集を宝物のようにして笑う俺を父はどんな目で見ていたのだろうか?
今となってはおぼろげな記憶すらもそこには無い。案外嘲られていたのかもしれない。そんな劣等感混じりの妄想も少々。

たしか当時二度目の父の転勤だ。それゆえ自分としてはあまりショックや戸惑いを感じなかったのだろう。
物心ついた頃から友達を作るのが苦手だったのもあいまって、新天地への願望が自己の変化だった当時。
そこら辺からして餓鬼と言うのは能天気でもある。金、手間、時間、ソレを考えずに人生やっていけるあたりから羨ましい。
『まるで熱病のよう』とまではいかないが、ソレなりにうれしかった記憶。能天気さは今と正反対だ。
感情の細かな部分はうっすらとしか残らない。むしろ忘れたい汚点かもしれないがソレはソレ。

「よかったな」

「・・・・ん」

何処か現実味の無い幸福感というのも感じる人間が馬鹿なら案外本物にみえるものだ。
『言う事を聞きなさい』『いい子になりなさい』そんな義務への権利。幼稚な認識。
幸福感そのものをそう捉える地盤があったからこそ、思考停止がなおの事悪化してたのだろう。
本当に軽い口調で告げられた裏切りの台詞が、まったく予想できずに終わるほどだからコレは見て取れる。
まああんなのを裏切りと取るあたり、俺の思考も異常といえば異常なのかもしれない。

「まあお前さんの治療もこれでコレで捗るだろうて」

「・・・・・・・・・うん」

そんな我の弱い人間の割に父の言葉について疑問を持った事は多かった。
父の言う病気。それは結局なんだったのだろう?其れだけが今でも実感できない。
先の返答には少し間が空く。治療だなんて残酷な言い方、態々しなくてもいいのに。
俺の中の反抗心がそうさせたのか?あるいは正常を自称する俺の自我がそうさせたのか?

おまけで唐突な話題転換。強引と言い換えても良い。過去の俺でもそう思った。
好奇心という夢心地から急に現実へと引き戻されてすぐさま沈黙。
『嫌な感じだ現実なんて』そう思うあたり若かったんだろう。当時の俺も。

街路樹の立ち並ぶ大通り。そこに敷き詰められたタイルを足でいじくる。地面を向いた視界が惨く狭い。
ボゥとした際に手足を遊ばせるのは会話の最中に目をそらすのと又同じ。大抵は怠惰か不安からの動作らしい。
鳥たちはそんな当時の俺の心情風景とは関係無しに本能のみを遂行する。随分と能天気で羨ましい。
街路樹はもう実を付けていたのか?ハトが銀杏をつついていた。白い鳩だったのでよく覚えている。
そんな光景に感じるのは自分とのテンションの差。それによる浅い孤独感は何処か何となく肌に寒い。

「・・・・・・・父さん、転勤先へ行くとしかいってなかったじゃないか」

「ああそうだ。向こうにいい先生が居るんだ。見てもらったほうがいい」

なぜ父は自分を病人扱いするのだろうか?それが妙にナルシズム混じりの哀愁を誘う。孤独感に酔う。
ジョークならどれだけいいことか。まあ頭おかしいと言い続ける親も嫌だけど、素で言われるのよりは幾分かマシだ。
そういえば、父が初めて俺を『狂っている』といったのは何時のころだったか?もう大分前だったとしか覚えてない。
初め、きっかけとなった質問は至極簡単なものだった気がする。しかし今ではそれも思い出し辛い。

育児ノイローゼ。彼らは自身が狂い始めたことを認められず俺を病気だといったのか?
あるいは俺が本当に狂っていて両親こそ哀れな被害者だったのか?どちらが表なのだろう?
今ではソレすらはっきりしない。主観による記憶もそうだし客観なんてなおのこと。

「僕は別に病気じゃないよ」

「自分でも自覚はあるんだろ?思ってもないことを口にするな」

初めから決め付けてかかる傲慢な台詞。高圧的な言いぶりと偏見に塗れた口調。
まるで籠の中の蟲だ。彼のこういう話し方は金属製の檻に閉じ込められたような、冷たい窮屈感しか感じない。
思考も行動も動機も何もかも、与えられ、制御されているような劣等感。反発する意思より孤独への恐怖が先に出る。

新天地へ行くというシュチュエーションも此処に来てソレに拍車をかけていた。さっきまでの換気が嘘のよう。
自分の居場所が全部奪われる焦燥感。なんで俺はここまで嫌われたんだろう?原因はどうにも曖昧でハッキリしない。
確かに理由は其処にあるのに中々認識できない。そんな奇妙な感覚。喉まで出掛かって言葉にならないと言っても良い。

「お父さんは僕が死んでも覚えていてくれる?」

「・・・・・・・手術するわけでもないから死にはしないよ、お医者さんとお話をして普通になる訓練をするんだ」

理由の一つとして辛うじて思い出せたのは強迫観念にも似た死への恐怖。それからくる執着。
一辺だけで見れば現象とも見えるソレは不可視な神にも見える。怯え、恐怖することがそんなにも異様に見えたのか?
こちらからしてみればソレを意識しないで生きていけるほうがよほど逝かれて見えるほどだ。皆無神経が過ぎる。
人生の努力やらルールへの従順やら。ソレらが一切無駄になるであろう『真なる絶対者』それが死への認識。

ここまで『正しい事』に執着するのであればなおの事。善良であることに意味を持ちたがる。
心理学でいうタナトフォビア。『現在』にしがみついた自我欲求の成れの果て。無様にも見える思い。
いつか来るだろうものを恐れるのは滑稽なのだろうか?周囲から否定され続けると其の都度、そう思わざるを得ない。
どこか何となく思考が衒学的。思い出すのはレクター博士。ただベクトルは真逆だ。ネガティブと攻撃性。

父は俺が押し黙ったところで、この話はお終いとでも言うように自分の手を軽く叩き、その身を翻す。
目の前に来るごつごつした手。さっきまで聞いてた低く渋い声。それら全てがこのタイミングでは威圧的に見えるから其処は実に流石。
演出に関しては彼もある種の才能を持っているかもしれない。まあ、その対象が餓鬼だと誇りようもないだろうけど。

(相変わらず嫌になる。力ずくや威圧で納得など得られる筈も無いのに)

いい加減この人も親慣れしてないな。そう思った当時たしか十歳弱。
先入観からか?そのほっそりとした顔がなぜか非常に不細工に見えた。
現在からみると鼻毛が出ているその顔にある威圧感は薄い。

過去の俺がこれだけ劣等だと如何せんこれも遺伝のような気がしてならなくなる。
『なんだ。結局俺の欠陥は全部父さんのせいじゃないか』心の中で唯我独尊。
自分で思ってみて何だが、責任転嫁への流れが意味不明。コイツも最早病気の域だ。
どれだけコンプレックス持っているんだろう?将来自分がサイコさんにならないか今から心配。
自然と開いた間を埋めて、俺が言葉を再び綴る。内面とは裏腹に傷ついた感じ。

「父さんそんなに僕のこと嫌いなの?引き離したいならそう言えばいいじゃないか」

「一言もそんなこと言ってないだろ。」

此処であえて同情を誘う言い方をしたあたり末恐ろしい餓鬼だ。ちなみに当時は犬をイメージして縋っていた。
お前は犬じゃなくてハイエナだろ。そう現在から突っ込みを入れるのも忘れない。自虐ネタは尽きる気配が無い。
この父も父で臆病なヤツだ。自分以外の価値観を『何となく』排斥するなんて人間としての器が知れる。
完成した世界観を持っているからこそ理解できないものが怖いのか?どっちにしろ小物としか思えない。
血族である以上、血の欠点はあまり見たくない。自分がソレに重なる気がして嫌だ。唯でさえ顔が似てるのに。

恐れのあまり、生きた証を他人の記憶に求めたのはやっぱり過去の自分。相変わらず歪な感性だ。
記憶もまた劣化し、いつかなくなる事を知っていたはずなのにコレに縋ったのは何故だろう?
こういう所、俺は当時から凄い卑屈。なんか客観的に見てて気持ち悪い。子供ながらに青臭くて気持ち悪い考え方。
何か漠然としたモノを理解してほしくて無言で父さんに引っ付くも臍を曲げたのか不機嫌な顔を若干された。

「さあ、向こうで母さんが待っているぞ早く行こう」

「・・・・・・・・・うん」

自然と精神の距離は物理的な距離となった。数メートル離れて歩く横断歩道。まるでその距離が『他人』のようだ。
ちんけな機械音で流れる信号用の『とうりゃんせ』が何処か不気味で、下を向きアスファルトを見ながら横断歩道を渡っていく。
歩幅が自然と小さくなりどんどん間に差が開いた。足を動かすのがもどかしい。怠惰な幼少時代。こんなころから怠け者だったのか?
この怠惰が悲しみや自己嫌悪からとは考えたくない。何処かアンニュイな気持ちすら湧いてくる。

足元では蟻がセミの死体を運んでいて最近まであった夏の名残を残酷に示していた。
耳入るのは、何処かこちらに迫ってくるような機械音。最近の機械は皆静かだからコレは旧式か。
自分の内面に入り浸ってネガティブな思考に入っている過去の自分はそれに気がつけない。気が付いていない。

実に気の抜けている空気。その後、ホンの数瞬の間。二、三秒ほどだったか?
『なんで俺はこのとき足を止めたのだろう?』今から見てそんな呆けが其の時確かにあった。
当時の感情は曖昧だ。今と全く違う価値基準を持っていたのだから、まあコレは当然とも言える。

「―――――!!!!」

ついで唐突な大きい声。確か父が自分の名前を呼んだ時の音。サイレンのような轟音。
『そんなに大きく怒鳴らなくても聞こえるよ』緊張感の無いマヌケな感情。そういうズレた思考も脳内で流れた。
やはり父は俺が嫌いなのだろうか?先のやり取りからか?子供っぽい拗ねた思考が過ぎり、現在の俺に嫌悪が走る。
そこに青臭さを一切自覚することが出来なかった過去の俺はのんびりと頭を横向きに向けさせ……。


『俺の真横にあるのは黒い塊』


「・・・・・・・・・・・・・へ?」

ソレがトラックだと理解するのにかかった時間は割と長い。
ただ信号機の『とうりゃんせ』は耳から消えていた。そのことだけは自覚してる。
トラックに付いた金属性のナンバープレートがそれら情景を反射した。
太陽が妙に黄色い。確かあの当時はお昼時だったか?

急ブレーキをかけるタイヤのゴムが焼けた臭いを出している。銀杏並木が風で舞う。
こんな見晴らしのいいとこで交通事故にあうとは、まったく自分も間抜けなものだ。
その上あんな話の後だから尚更展開がアホ丸出し。呪われてるんだろうか俺?

その数瞬の間にも、俺の前方を埋め尽くさんとする黒い壁は隙間なく広がっていく。
ソレがトラックだということはわかっていても『黒い壁』以外に表現する気が湧いてこない。
他に表現するとしても、貧相なボキャブラリーでは死か恐怖の安っぽいイメージしか出ないだろう。

恐怖よりも思考停止が先に来たのは、その光景に現実味をもてなかったからか?あるいは現実逃避か?
哲学に浸ってリアルを知らなかったモンだから死の原液は強力すぎた。濃過ぎて訳が判らない。
想像という水で薄めても恐怖していたのに、行き成り頭からぶっかけられたらどう反応すれば良いのだろう?

『甘え』と『ギャップ』の強制自覚。前者は幼さ、後者はリアルの重さ。そう言い換えても良い。
常日頃なんだかんだ言って精神の根底にあった感覚は、親という絶対者を中心にした小さな世界。子供特有の幼稚な感覚。
意識喪失の直前にさっき言い争った父の顔が浮かんだのも、おそらくはそういう幼稚なエゴ故だ。
それを叱咤するかのように俺のほほに衝撃が走り脳が揺れる。痛感は脳にソレを届ける間もなく活動を停止し。



―――――無。






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